「思考の整理学」という本の中で、外山滋比古さんはこのように書いています。
”現実に2つある、と言ったら笑われるであろうが、知恵という《禁断の木の実》を食った人間には、現実は決してひとつではない。”
”われわれがじかに接している外界、物理的世界が現実であるが、知的活動によって、頭の中にもうひとつの現実世界をつくり上げている。はじめの物理的現実を第一次的現実と呼ぶならば、後者の頭の中の現実は第二次的現実と言ってよいであろう。”
”大部分の人間は、ほとんど第一次的現実によってのみ生きていた。それでは本当に現実に生きることにならないのも早くから気づかれていて、哲学への志向が生まれた。”
”従来の第二次的現実は、ほとんど文字と読書によって組み立てられた世界であった。ところが、ここ三十年の間に、新しい第二次的現実が大量にあらわれている。テレビである。茶の間にいながらにして、世界の果てまで行くことができる。旅行したような気持ちになれる。そして、そのうちにそれが、第二次的現実であることを忘れてしまう。”
”現代人はおそらく人類の歴史はじまって以来はじめて、第二次的現実中心に生きるようになっている。これは精神史上ひとつの革命であるといってよかろう。”
そうなんです。
今、わたしたちが直面している現実が「第一次的現実」で、
本やテレビの中でつくられた頭の中にある現実が「第二次的現実」なのです。
うちのじいちゃんも、朝早くから畑でまっくろになるまで働き(第一次的現実)、
家に帰ったら、夜はWOWOWでハリウッドのアクション映画を見るのが大好き(第二次的現実)。
そんなふうに、人は実際の現実と、観念的な現実と、2つの世界を行き来することで
心のバランスをたもっているんですよね。
しかし、テレビからインターネットへと第二次的現実の世界が広がり、
生活の中心が第二次的現実へとなっていきました。
そして「第二次的現実」を商売にして儲ける人たちもでてきました。
芸能人、ゲームクリエイター、マスコミ、○○評論家…などなど。
だから子どもたちに「読書しろ」「勉強しろ」とうるさくいうのですよね(汗)
それについて、外山滋比古さんはこのように書いています。
”しかし、思考は、第一次的現実、素朴な意味で生きる汗の中からも生まれておかしくはないのである。”
”これまでは、《見るもの》《読むもの》の思想が尊重されたから、《働くもの》《感じるもの》の思想は価値がないときめつけられてきたのである。”
”人々の考えることに汗の匂いがない。したがって活力に欠ける。意識しないうちに、抽象的になって、ことばの支持する実体があいまいになる傾向が強くなる。”
ほんとうに最近、ことばから「汗の匂い」がしなくなっていることを感じます。
子どもたちのあこがれの職業の「YouTuber」も、「第二次的現実」の中で生きるお仕事です。
いわゆる「ひきこもり」といわれる状態も、「第二次的現実」の中で生きていきたい、辛い「第一次的現実」をみたくない気持ちから発生しているのでしょう。
このような感覚を否定するわけではありません。
ただ、あなたの目の前に広がる空の色、緑の青さ、空気の匂い。
自然の厳しさと恵み。
道端に落ちている石を拾ってみましょう。
ずっしりとした重さ。それを握れる手があること、それが奇跡です。
ときどきはスマホから目を上げて、
「第一次的現実」をしっかり感じていきたいですね。
ことばから「汗の匂い」が消えていくと、活力が失われていく。
人間であることそのものが揺らいでいくような気がしています。
”仕事をしながら、普通の行動をしながら考えたことを、整理して、新しい世界をつくる。
汗の匂いのする思考がどんどん生まれてこなくてはいけない。”
目を上げて、深呼吸をして、手を動かし、体を動かす。
あなたの人生は、だれのものでもない、あなただけのもの。
誰かのつくった現実を生きるのではなく、あなた自身の現実を生きましょう。
そして、その「汗の匂いのする」現実を、あなたの言葉で伝えましょう。